2013年8月27日火曜日

映画『私の優しくない先輩』についての考察 (加筆、修正あり 2014年11月2日)



まず、この映画の感想の大きな特徴が、ラストを「ハッピーエンド」という人と「ハッピーエンドではない」という人に分かれることです。
同じ作品を観たのに、かなり異なる解釈をされています。
これだけでも、この作品が一筋縄ではいかない内容だということを証明していると思います。
さらにネット等でこの映画を観た人のレビューを読むと、僕の見解とかけ離れている考察が多く、特に批判している人は作品の内容を全く理解できていないのではないかと思う文章ばかりです。


僕はこの作品を間違いなく大傑作だと思いますが、同時に「好き嫌いが分かれる作品」であるとも思います。
それは、表現方法や演出がかなり特徴的なため、生理的に嫌悪感を抱く人が多いと思われるからです。
しかし、心にスモークを張った状態で観てしまうと、この作品の真の「内容」に気付かず、自分が「面白くない」と思っただけなのに、「良くない作品だ」と解釈してしまいかねません。
ですから、「面白くない」と思った人にも、これから僕が考えるこの作品の本質を知っていただきたいと思います。

これ以降はネタバレありで僕の解釈を書きます。
僕の解釈は完全な的外れかもしれません。
しかし、もし僕の解釈が正しいのであれば、この映画を観た大半の人はその魅力に気づいていないということになるはずです。























* 以下の文章で「耶麻子が語った」という表現は、心の声で語った場合で、実際に言葉に出した発言は「~と言う、言った」という表現を使うことにします。


まず冒頭、主人公の耶麻子が陳腐な宇宙に浮かんでいるシーン。
体を吊っているワイヤーが見えます。
これは、高校1年生である耶麻子がまだ未成熟で、発想力が陳腐な人間であることを象徴していると思います。
そして、登校中の耶麻子のモノローグで「この島には雨が降らないらしい」という言葉が出てきます。
実際、空には太陽があって晴れています。
しかし、最後まで観た人ならお分かりのように、この島には雨が降ります。
つまり、「この島には雨が降らないらしい」というのは、耶麻子の勝手な妄想なのです。
なぜそんな妄想を抱いているかといえば、南愛治先輩に恋をして浮ついているからです。
浮ついている気持ちの象徴が「この島には雨が降らないらしい」という、めちゃくちゃな発想に繋がっているのです。


学校に入って愛治を見た耶麻子は、自作の歌とともにダンスを踊ります。
もちろんこれも妄想ですが、浮ついた気持ちが前面に出ていることを表現しているシーンだと思います。
そのあと耶麻子は、「愛治君の思い出だけが詰まった宝箱」を取り出します。
箱の中は光り輝いています。


耶麻子は「私は生まれつき心臓が悪い」と語り、小学生時代に体育を見学しているシーンが出てきます。
この場面で「耶麻子は運動が出来ない」という設定が、ある程度分かります。
それから耶麻子は「人は死んだら宇宙に戻る、そう決めた」と語ります。
ここで耶麻子が、割り切って死を恐れないようになったことと、生に対して醒めた考え方を持っていることがうかがえます。
逆光の美しい夕日を受けながら、人間が浮いている描写が用いられ、耶麻子は「ここはシュールな世界。きっとここなら安心して死ねる」と語ります。
そして、生に対する唯一の心残りとして、「私はまだ誰ともキスしてない」と語ります。
大人が見たら大したことないように感じるシーンかもしれませんが、まだ未成熟な耶麻子にとって、「死ぬ前にキスをする」ということが人生に残された最大のイベントなのです。
そのあと授業のシーンになりますが、黒板にはなぜか道路標識が。
高校でこんな授業をするわけがないので、これも耶麻子の浮ついた気持ちが生み出した非現実な風景だと言えると思います。


このあと不破先輩が登場。
耶麻子は「私がこの世で最も苦手な人。このシュールな世界に一人だけ迷い込んだ実写男」と表現します。
ここはかなり重要です。
一方的に愛治のことを想い、常に妄想を抱きながら生活している耶麻子だからこそ、「現実の汚さ」を感じさせる不破のことがひときわ異質な物体のように感じられてしまうのです。
そして体育館で不破が高レベルなマット運動を披露しているとき、耶麻子は「先輩はキモいけど、回転だけは異常に上手い。男の魅力はギャップだとなんかの本に書いてあったけど、このギャップはいらない。逆に生々しくて気持ち悪い」と語ります。
ここもかなり重要です。
のちに耶麻子は愛治のギャップを知ってテンションが下がります。
世界を美しい妄想で塗り固めている耶麻子にとって、「現実は生々しくて気持ち悪い」からです。
耶麻子にとっては、「妄想から現実に引き戻されてしまう存在」が、この時点では不破だけなのです。


耶麻子は「東京には先輩(不破)のような人が一杯いた。負けるな、叶わぬ夢などない、などと叫ぶ奴ら。くさい、ウザい、暑苦しい」と語ります。
現実の汚いことに目を背けている耶麻子に対して、不破はそれを前面に押し出してくる存在です。
しかし逆に言えば、耶麻子には本音で語り合える家族や友人が不破以外に存在しないということの証明でもあります。
そして不破に無理矢理でんぐり返しをさせられた耶麻子は、失敗して変な体勢になります。
この時点で「耶麻子は運動が全く出来ない」ということが確定するので、耶麻子がダンスを踊るシーンはすべて耶麻子の妄想であることが確定します。


病院で寝ている耶麻子が両親と一緒に帰るシーンで、耶麻子は「親子っていっても、たまたま出会っただけなのかもしれない」と冷めたことを考えます。
そして再び妄想の宇宙のシーンになり、「私たちはみんな宇宙の周りを回る人工衛星」と語ります。
家族や友人のことを「時々すれ違い、離れていく存在」と認識しています。
翌日学校で愛治と挨拶した耶麻子は、心臓がポップに戻り、「こうやって愛治君を想うときだけ、ずっと生きていたいと思う」と語ります。
この時点で、耶麻子が生きる目的の全てが愛治であると言っても過言ではないでしょう。


階段で喜久子と話したあとの昼休みの場面で、耶麻子は一人で昼食を食べようとしています。
この場面から、「やはり耶麻子は友達が少ない(いない)」ということがうかがえます。
そして喜久子と一緒に昼食を食べながら、「この子といると正直優越感に浸れる」と語ります。
この発想は、妄想ばかりしている耶麻子にしてはものすごく現実的です。
世の中の大半の人が少なからず抱いている発想であり、つまり喜久子に対しても耶麻子は「現実」を感じ始めているのだと思います。


下校時、祭りについて熱く語る不破に対し、耶麻子は祭りについて「先輩は何も分かっていない、あの火は遠くから見てるからいいんだ。なんでもそう。近いと、臭い、ウザい、めんどくさい。人は何かに夢中になっているとき、確実に視野が狭くなっている」と考えます。
しかし、のちに耶麻子は祭りの火を手に持ってはしゃぐことになるのです。


屋上に呼び出された耶麻子は、不破に「耶麻子と愛治をくっつける」と言われます。そのとき耶麻子は「いつも暑苦しい先輩の言葉がすっと中まで入ってきて怖かった」と語ります。
「愛治と付き合う」ということが耶麻子の中で「現実」に近づいたため、もともと「現実」の存在の象徴だった不破の言葉が心に入ってくるようになっているのです。


祭りで屋台を出すことになった耶麻子は喜久子をメンバーに誘います。
耶麻子は「喜久子が好きだから誘ったのではない。愛治君の前でかっこ悪い姿は見せたくない。自分よりどんくさい怒られ役が必要だ。私ってずるい。でもずるいかどうかは人が決めること。ずるいことは人にバレない限りずるいとは言えない」と語ります。
これも非常に現実的な考え方です。
愛治が遠くから見てるだけの「妄想」の対象から、「現実」に接する対象になったことで、耶麻子からはリアルな発想が生まれてきています。


耶麻子の家でたこ焼きを作る練習をするようになってからの、耶麻子の浮ついた気持ちは最高潮になります。
これまでは「妄想」で楽しいことを考えていたのに対し、今は「現実」で嬉しくて楽しいことが起こっているからです。
このときの学校の授業の内容が「ボーリングの上手な投げ方」になっていますが、これはおそらく「たこ焼きが丸い」という共通点と、「とにかく人生が楽しい」という耶麻子の状態の比喩であると思われます。
この時期には、「何もかもうまくいくような気がした。このままずっと、永遠に生きていられるような」と、あの序盤の耶麻子からは想像できないようなポジティブな言葉が語られます。
しまいには「愛治君は神!」とまで語ります。


ちなみに、映画の最初からここまで、外の場面の天気はすべて「晴れ」です。




しかし、愛治がたこ焼きの練習に来なくなって耶麻子はテンションが下がり、神社に「このまま幸せな日々がずっと続きますように」とお参りに行ったところで、不良仲間とタバコを吸っている愛治を目撃。
戸惑い、動揺している耶麻子が受けている授業は「受精から始まる妊娠」についての内容になっています。
道路標識やボーリングの投げ方とは違い、シリアスな授業になっています。


耶麻子が愛治と近づいたことによってマイナスな部分を知ってしまい、それによって生じた落ち込みは、「ずっと眠ってた現実という化け物が、ぬっと起き上がってこっちを見てる。草とか土とか海とか、生臭い匂いがズカズカ鼻の中に入ってくる」と表現され、序盤で逆光の美しい夕日を受け、人間が浮いている描写を用いられていた下校途中の道は、薄暗く曇っています。
「愛治君の思い出だけが詰まった宝箱」の光は、明らかに減っています。


「自分より弱い人間」を求めて喜久子の家に行った耶麻子は、「南愛治に告白された」と喜久子に言われ、心臓が激しく動き、動揺します。
耶麻子は嫉妬から、喜久子に「断った方がいい」と言います。
「自分のズルさはバレていない、ほっとした」と耶麻子は語ります。
ここで外へ出ると雨が降っています。
この雨は単なる雨ではありません。
序盤に耶麻子が「この島は雨が降らないらしい」と語った言葉が単なる妄想であったこと。
「雨が降らない」=「自分に不都合なことは起こらない」と解釈すれば、
耶麻子がいかに薄っぺらい考えのもと、薄っぺらい世界の中で生きていたのかが露呈される場面です。


喜久子にもらった傘を投げ捨て雨を浴びた耶麻子は「頬にあたる雨があったかくて嫌だった。最近全てがリアルで嫌になる」と語ります。
これは自分が冷たく生気(現実味)のない人間で、雨(リアルなもの)を温かく感じるという意味だと思われます。
土砂降りの中に現れた不破。
「絶対に認めたくないけど、先輩の声は優しかった」と語る耶麻子。
これまで自分の世界を持っていた耶麻子にとって、自分は絶対的な存在でもありました。
だから自分の世界を壊す人間(不破)を「優しくない先輩」と思っていたのですが、このとき耶麻子は自分のことを「私はずるくて、最低で、絶対地獄に落ちるような」と卑下します。
そうしたことで、不破を優しく感じるようになるのです。
不破の言動自体は最初から一貫して変わっていませんが、耶麻子自身が変化したから不破に対するイメージも変化したのです。


検査入院から退院した日、耶麻子は父親とデートします。
このときの天気は曇り。
耶麻子は「人と人は一瞬すれ違うだけ。心の中はのぞけない、のぞいちゃいけない。だってそれを知ったって、人は人に何もしてあげられないんだから」と語ります。
この言葉は、耶麻子が自分の死が近いことを知り、誰も自分を助けることはできないという、諦めの感情から発せられたものだと思います。


「最終回は嫌いだ。無理矢理大きな事件を起こして、最後にみんな泣いて、そんな強引でしみったれた感じが嫌い。連ドラなら5話とか6話がいい。そのどっちでもいい感じが永遠に続けばいいのに」という耶麻子の語りがここで出てくるのですが、この言葉が僕は凄く好きです。
それはこの映画のラストシーンを観ることでより浮彫りになるので、詳しくはあとで述べます。


完全に心を閉ざしてしまった耶麻子が受ける授業シーンでは、教師が「人間は自由である。人間は自由そのものである。もし一方において神が存在しないとすれば、我々は自分の行いを正当化する価値や命令を眼前に見出すことはできない。~」というフランス哲学者サルトルの言葉を読み上げています。
耶麻子はこの時点で他者との関わりの中で自分を否定する状態になっており、それは自分の世界の中だけで生きてきた今までの耶麻子の人生には経験がなかったことなのだと思います。
この引用は、「人間は自分のなすこと一切について責任がある」ということに耶麻子が気付き始めているという描写なのではないかと思います。


授業中、耶麻子は「消えればいいのに、今すぐ」と語ります。
これは自分に「現実のめんどくさいこと」をもたらす人間がみんなこの世から消えればいいのに、という意味だと思います。
しかし、そのあと廊下で愛治を見かけた耶麻子は、とっさに隠れます。
「消えればいいのに」と語りつつも、まだ愛治に対して何らかの感情がある、つまり「関わっていたい」という潜在的な気持ちを表すシーンだと思います。
そこで不破が現れます。


不破に連れられて体育館に来た耶麻子は「この人は、なんで無理矢理私の心の箱を開けようとするんだ」と語ります。
このときの耶麻子は、不破を完全に否定できません。
「現実」に引きずり込んだのは不破だけど、その「現実」に浮かれていた自分がいたことも事実だからです。
しかし「現実」に触れたことで生まれた苦しみを他人のせいにしなければ、自分を否定することになってしまいます。
それはおそらく、これまでの耶麻子には経験がないことなのです。


ここで不破と耶麻子は言い合いをしますが、不破が「何で俺が嫌いだ」と言うと耶麻子は「臭いから」と言います。
不破は「お前は臭いよ、お前の臭い(におい)がするんだよ」と言います。
ここで耶麻子は「クサい」という言葉を「他人に踏み込んでくるウザさやめんどくささ」の意味で使っていると思われますが、不破が使っている「臭い(クサい)」という言葉は、「人間としての個性や、汚い部分、美しい部分」を表現しています。
友達や家族も含め、耶麻子の心の奥深くにこんなに踏み込んできた人間は、おそらく不破が初めてなのだと思います。
だからこそ、耶麻子は変わりつつあるのです。


そして祭りの日の耶麻子は、吹っ切れたような笑顔でたこ焼きを作ります。
近くで見る「山の火」に興奮する耶麻子。
以前「あの火は遠くから見てるからいいんだ」なんて考えていたことは、おそらく忘れているはずです。
不破の計らいにより、神社で愛治と耶麻子は対面します。
そこで耶麻子は「なんで来なかったんですか。みんな一生懸命働いてたんですよ。」と愛治を問い詰めます。
この場面はかなり重要です。


以前の「妄想」ばかりして世界の「綺麗なもの」しか見ようとしなかった耶麻子であれば、ここで愛治と揉めるような発言は絶対にしなかったはずなのです。
ここは、耶麻子がより人間的な臭みが出てきているシーンです。
好きなものを遠くから見ているだけなら誰も傷つかず、美しい想いだけを持ち続け、宝箱に閉じ込めておくことができる。
そうやって現実逃避をしてきた耶麻子が、関係が壊れてしまうかもしれないにも関わらず、自分の感情を愛治にぶつけるのです。
ここで耶麻子は「現実」というものを突き付けられます。
あんなに思い描いていた愛治との会話が、こんなにもつまらないという現実。
付き合いたくて必死になったけど、いざ「付き合う」と言われたあとの空しさ。


不破と遭遇した耶麻子は、またも「現実」に自分を引き入れたことを罵ります。
しかしそのあと耶麻子は、本音と感情を爆発させます。
「自分を守る自分が大嫌い」
「私は最低だ」
「本当は嘘つきで、口が悪くて、いつもひどいことばっか考えてて、みんな死んじゃえばいいって、そんなことばっか」
口調も変わり、
「なんであんたが知ってんだ。こっち見んじゃねーよ、バカ!」
と言い放ちます。
おそらく、耶麻子が初めて人前で自分の本性を偽りなくさらけ出したのがこの場面です。
そして耶麻子は不破に「どっからどこまでが本当ですか?」と問いかけます。
これは、すでに「現実」というものの空しさや恐ろしさを体感している耶麻子の、それでも妄想にすがりついていたい耶麻子の、あらゆる事実や感情に対してけじめをつけたいという願いがこもっている言葉です。
この言葉に不破は「お前がそうだと思うとこまでだ」と答えます。
「苦しくてたまりません」と言う耶麻子に不破は「それも本当だ。本当ってのはな、お前が感じるもの全てだ」と叫びます。
そこで夜空に花火が上がり、その花火を見つめたあと耶麻子は走って行き、祭りの山の火を振り回して、「私は私のでんぐり返しをする」と叫びます。
おそらくこのとき耶麻子は、「こんなに苦しい気持ちなのに、あの花火は綺麗だ。美しい。」と感じ、「『現実』にあるのは嫌なことや苦しみだけじゃないんだ」ということを無意識に認識して、「妄想」で実感していた「傷つくことのない、自分の作り上げた美しい世界」とは違う、「本当の自分を認め、さらけ出したうえでの『現実』で生きる喜び」のようなものを初めて実感したのだと思います。


これまで耶麻子は自分が病気であることで冷めた思考になり、傷ついたりするくらいなら妄想を抱いていた方がいいと考えていました。
何かに熱くなったり、夢中になることを無意識に避けていたのは「どうせ、すぐ死んじゃうから。無駄になってしまうから」という諦めの気持ちが強かったからだと思います。
しかし、ここで耶麻子は「死ぬまでに自分の言いたいことを言って、やりたいことをやって、思い出を作る」という発想に切り替わりました。


ところがここで耶麻子は重体に陥り、また妄想の宇宙のシーンになるのですが、ここではこれまで見えていた体を吊るすワイヤーがなくなっています。
これは、冒頭の「未成熟で発想力が陳腐な耶麻子」ではなくなっているということを証明しているシーンです。
耶麻子の考える世界(宇宙)が、より現実と近いものになっているからです。
「『本当』ってやっぱり残酷で嫌だ」と語る耶麻子。
序盤や中盤では死ぬことに対して割り切った考えを持っていたのに、ここでは明確に「生に対する執着」を語ります。
そして過去がフラッシュバックする走馬灯シーンでは、不破と話す場面ばかり出てきます。
これは、耶麻子にとってここ数日の「現実」の出来事がそれまでの「妄想」で塗り固めてきた薄っぺらい人生よりも遥かに有意義であったことの証明でもあり、無意識のうちに耶麻子が不破を好きになっているということを示唆する場面でもあります。
そして、「死ぬ前にキスがしたい」と思っている耶麻子は、夢の中で不破に「キスしてください」と言い、断られます。
しかし、一瞬目を覚ました現実の耶麻子に不破がキスをして再び宇宙のシーンになるのですが、今度はさっきよりさらに宇宙がリアルになっています。
映画の最初のシーンは地球と自分の大きさが同じくらいなのですが、このシーンでは地球が凄く大きくなっています。
「世界の大半が自分」という発想から、「大きな地球の中にいる自分」という発想に変化したのだと思います。
その大きな地球の上で耶麻子は不破に、「ありがとう」と繰り返し、「先輩(不破)のことが大大大キライで大大大大好きです」。
と言ってラストシーンになります。


このラストシーン、多くの人が「お飾り」だと思っているようなのですが、僕はこの映画の中で最重要だと思いますし、このシーンの持つ意味と素晴らしさこそが作品の高評価を決定づけていると断言できます。
このエンディングで耶麻子はノーカットでダンスを踊りますが、序盤のミュージカルシーン同様、まずダンスをしている時点でこのシーンが「耶麻子の妄想」であることがわかります。
では、いつの妄想なのか。
それは、このエンディングテーマのタイトル『MajiでKoiする5秒前』がヒントになっていると僕は考えます。
終盤からラストシーンにかけて、耶麻子が無意識に不破を好きになっていることは分かります。
しかし、そのとき耶麻子はまだ「自分が不破を好きだ」と完全には認識していません。
意識的に好きになる瞬間、つまり不破が耶麻子に「死ぬな!」と言ってキスをして、耶麻子が「愛治に対しての綺麗ごとの恋」ではなく、「現実の汚さを心得たうえで不破に本気で恋する」5秒前、つまり息を引き取るまでの間に耶麻子が抱いた妄想がこのラストシーンだと思うのです。


このラストシーンで耶麻子は、多くの生徒や家族と一緒に楽しく踊っています。
しかし思い出してください。
耶麻子の人生はこの光景とはかけ離れたものだったということを。
序盤で南愛治を好きだったときのミュージカルシーンで、耶麻子は愛治と数人の生徒と一緒に踊りますが、それはそのときの耶麻子の願望が表現されたものだったはずです。
つまり、ラストシーンも「耶麻子の願望」なのです。
「多くの人と接して、自分をさらけ出し、『現実』を楽しく生きたい」という願望。
耶麻子は不破のおかげで、「残りの人生を目いっぱい楽しもう」という発想を抱くことができました。
終盤は雨と曇りばかりの天気だったのに、このラストシーンでは晴れていることからも、耶麻子が浮ついた状態に戻ったと解釈できます。
しかもそれは、嫌なことから目を背けていた「逃げ」の姿勢ではなく、「本音」で人と接しようという「前向き」な姿勢です。
それを象徴し、表現しているのがあのラストのダンスシーンだと考えると、晴れ渡る校庭も、楽しそうな耶麻子の表情やダンスも、「お飾り」とは全く別の視点で見ることができるはずです。


物語の途中で耶麻子が「最終回は嫌いだ。無理矢理大きな事件を起こして、最後にみんな泣いて、そんな強引でしみったれた感じが嫌い。連ドラなら5話とか6話がいい。そのどっちでもいい感じが永遠に続けばいいのに」と語るシーンがありました。
その言葉どおり、このラストシーンは耶麻子にとっては決してラストではなく転換期だったはずで、もし無事であれば、これからわずかな期間でも明るい未来が待っていた可能性があります。
しかし耶麻子は死んでしまう。
これが「ハッピーエンドだ」とは簡単に言えません。
「死ぬ前にキスをする」という目的だけ見ればハッピーかもしれんませんが、僕はとても悲しい物語だと思います。
しかし、とても悲しい物語なのに、作品を観終わると「まるでハッピーな物語であったかのような気分にさせられる」のがこの映画の凄いところなのです。


ちなみに、本来入院していなければいけないような病状の耶麻子を、不破が無理させたことで死が早まったと考える人もいるようですが、では耶麻子が入院して安静に過ごし、数年寿命が延びたとして、その人生は幸せだった言えるのでしょうか?
人生に悲観的になり、自分の殻に閉じこもって妄想にふけった状態で長生きしたところで、ラストシーンのような気持ちに耶麻子がなれるのでしょうか。
何より、「あの子に思い出作らせますから」と言う不破の意見を承諾し、「入院させない」という選択をしたのは耶麻子の両親なのです。
両親が不破の意見に対立し、耶麻子を病院に閉じ込めていたら、少なくとも耶麻子に心境の変化は訪れなかったはずです。
耶麻子は死ぬ直前にあのラストシーンを妄想しました。
それは耶麻子にとってとても儚い、真の幸せな瞬間だったのではないでしょうか。


そもそもこの物語で耶麻子が死んだのかどうかということは公表されておらず、ラストも含め観た人それぞれが解釈しなければいけない内容になっているので、物語や人物にのめりこんで想像を膨らませることが出来ると、見え方が様々に変化する映画だと思います。
それと、僕はもともと難病モノにありがちな「泣かせようとする演出」や「人の死=不幸」と一辺倒に描かれることが苦手だったのですが、この映画の難病モノや人生の描き方に対するスタンスや希望の持たせ方などにとても深い感銘を受けました。


生きていると、「この人とはあまり関わりたくないな」という人がどうしても現れることがあります。
そして僕自身、なるべくそういう人とは距離を取ったり、あまり関わらないようにしていました。
序盤で耶麻子が不破に嫌悪感を抱く気持ちも凄く良く分かります。
しかし、この映画を観て僕は少し考え方が変わりました。
「自分が全く好きでもない、むしろ嫌いで関わりたくないと思っている人が、もしかしたら自分の人生を良い方向へ導いてくれる可能性がある」と思えるようになったのです。
この映画で、不破自身の性格や考え方は最初から最後まで何も変わっていないのです。
「嫌な奴」が「良い奴」に変化したわけではありません。
耶麻子の発想や捉え方が変化しただけです。
自分自身も、「発想の変換をすれば世界の見え方が大きく変わる可能性がある」という考えを持つことができるようになりました。
そして、僕はこの映画のラストシーンの美しさに人生観を変えられたのです。




(追記)
この記事を書いた後に雑誌「spotted701 Vol.15」の山本寛監督、松江哲明さん、古泉智浩さんの対談を読んだら、終盤の病院のキスシーンと耶麻子の生死について監督が、

本来はどっちつかずにしようと思ってたんですけど、臨終後に不破が「死ぬな!ヤマネコ!」って叫んでる残酷なシーンにするしかない

と語っていました。
それを踏まえ僕の解釈も、「耶麻子が死ぬ寸前(不破への恋を自覚する寸前)にエンディングのダンスシーンを妄想し、そんな妄想をしながら息を引き取った耶麻子に不破がキスをした」というものに変更したいと思います。
この解釈だと「耶麻子は死ぬ前にキスを出来なかった」ということになるので、最初の自分の解釈よりもエンディングのダンスシーンの悲しさと美しさがさらに増すような気がします。
ただ同誌で監督は、

プロデューサーは今だに「耶麻子は生きてる」って言うんですよ。人それぞれ解釈が違う。

とも語っています。
このシーンだけでなく全体についてもやはり人それぞれ解釈が違うはずで、だからこそこの映画は、好き嫌いが分かれる、一筋縄ではいかない魅力的な作品になっているのだと改めて思いました。











2013年8月26日月曜日

続・「良質な作品」と「面白い作品」は別物



「良質な作品」と「面白い作品」は別物


↑ の続きです。



映画やドラマなどの映像作品において「俳優の演技が下手だ」という意見は、多くの場合作品に対する否定的な意見として使われます。
しかし僕は「俳優の演技が下手」であることが、作品にとって必ずしもマイナスになるとは限らないと考えます。
仮に「凄く演技が上手いプロの俳優」と「演技をするのが初めての素人」が全く同じシーンを演じた場合、前者の方が「良質な作品」になる可能性が極めて高いですが、後者の方が「面白い作品」になる可能性も十分有り得ると思うのです。

この例でイメージしやすいと思うのは、松本人志監督の『さや侍』です。
この作品は素人の野見さんが主演で、一番の見所は「野見さんのアドリブ」と「野見さんの演技の下手さ」だと思います。
一応感動的なストーリーっぽくなっていますが、僕にとっては野見さんが演じている時点で感動なんてできませんし、満足度も決して高いわけではないのですが、この作品より「面白い」映画はなかなかないと思っています。

もし『さや侍』の主演が野見さんではなくプロの俳優だったら、もっと「良質な作品」になった可能性は高いですが、同時に「面白い作品」ではなくなる可能性が高いです。
この映画を「良質な作品」でもないし「面白い作品でもない」と感じた人も多いと思いますが、それは「野見さんを面白い」と感じることができないからで、それは笑いの好みの問題とともに「あらかじめ野見さんがどんな人か知らない」という原因による可能性も高いはずです。
つまり、『さや侍』を「面白い」と感じるために必要な大きな要素は「野見さんがどんな人か知っている」ということなのです。

「特定の出演者についての知識があるかどうか」ということが「面白い作品」と感じるかどうかのカギを握っている時点で、『さや侍』は「良質な作品」とは到底言えません。
ただし、野見さんのことを知っている人にとって『さや侍』は、主演に野見さんを使うことで、「良質な作品」ではなくなるリスクと引き換えに「面白い作品」になる可能性が高まった映画なのです。

このように「良質な作品」と「面白い作品」というのは反比例の関係になることも多く、完成度の低い作品(良質ではない作品)を一概に「面白くない」という言葉で片付けてしまうのはある意味乱暴であり、誤解を招く可能性が高いとともに、「作品の本質を語ることができていない」ということにもなりかねないので、改めて自分もそのことを肝に銘じるようにしたいと思います。


2013年8月25日日曜日

「良質な作品」と「面白い作品」は別物


エンターテインメント作品において「良質な作品」と「面白い作品」というのは混同されがちだと思うのですが、僕は全く違うと考えます。
「良質な作品」、「良質ではない作品」という表現は客観的な解釈であるべきで、ある程度誰に説明しても理解されるべき表現なのに対し、「面白い」、「面白くない」というのは完全に主観的であるべき表現だと思います。

例えばスポーツにおいて「良質な試合」というのは、「素晴らしいプレイが多く、ミスが少なく、反則のない試合」であると説明できます。
しかし、それが「面白い試合」と言えるかどうかは全く別次元の話になるというのは理解することができるはずです。

では、エンターテインメント作品における「良質な作品」、「良質ではない作品」の基準は何なのかと考えると、明確な答えは出てきません。
ただ、少なくとも「これは良質ではない作品だ」と語る場合、不特定多数の人を納得させる理由が必要になります。
自分の感情ではなく、客観的な事実が必要になります。

凄く極端な例で説明すると、映画やドラマなら、「冒頭で両足を大怪我して歩けなくなった人物が、同じ日の一時間ほど経過した場面で普通に歩いている」などです。
あとで「実は物凄く効く薬が開発されていて、それで治った」とかの説明が出てくればもちろん問題ありませんが、足が治っていることに関して何の説明もなければ、それは「良質ではない作品」だと言えるし、その理由も多くの人に理解してもらえるはずです。

ただし、この場面を見て「面白くない作品だ」と思う人もいれば「面白い作品だ」と思う人もいるはずなのです。
それは人によって笑いのセンスやリアルとフィクションの許容範囲というものが異なるので、この事象を人が面白いと思うか不満に思うかは客観的には計り知れないことなのです。
しかし、たとえこの作品を面白いと思う人が多かったとしても、この作品は「良質な作品」ではないということは言える。
これが「良質な作品」と「面白い作品」は別物だと考える僕の見解です。



2013年8月13日火曜日

良かった音楽作品 2013年6月 購入分



購入した音楽作品の満足度10点満点中7.5点以上の作品を紹介します。




[アルバム]





8点 JIMPSTER – PORCHLIGHT AND ROCKING CHAIRS [FREERANGE] [2LP]




自身が主宰する[FREERANGE]レーベルから、UKディープ・テックハウスの重鎮JIMPSTERによる7年振りとなるアルバム。

シングルやリミックスで披露されるメロディアスなテックハウスのイメージを超越し、ムーディーなビートダウンや叙情的なディスコテックなど、いつも以上に幅広い音楽性とクロスオーバーな楽曲センスが発揮されたことでチルアウト的な側面も併せ持ち、聴いていて非常に心地良いアルバムに仕上がっています。











7.5点 ORLANDO VOORN – DIVINE INTERVENTION [SUBWAX BCN] [2LP]


1990年代にデトロイトテクノをアムステルダムに広め、ここ最近も好内容のシングルをリリースしているベテランORLAND VOORNによる14年振りとなるアルバム。
今作はダウンビートやブレイクビーツ、ジャズブレイク、ジャジーハウス、エレクトロファンクなどリズムの多様性が特徴的となっており、デトロイトテクノを根底とした深くてエモーショナルなダンスミュージックを幅広い表現で披露しています。






[シングル]





8.5点 SPADA – ENERGY 52 (Taho Remix) [ESPAI MUSIC] [12inch EP]


SPADAが設立した自身のレーベル[ESPAI MUSIC]の第一弾。
軽快なテックハウスのイメージがあったアーティストですが、新たな方針なのか、エモーショナルなデトロイテッシュテクノを披露。
そして、オリジナルのスタイルを継承しつつそれを遥かに超越したTahoのリミックスが素晴らしい。
Vince Watsonあたりのファンにはかなりおすすめです。






8.5点 STEPHEN BROWN – TANGENT EP  [ANIMAL FARM] [12inch EP]


デトロイトの[TRANSMAT][SUBJECT DETROIT]などからもリリースし、デトロイトテクノフォロワーの中でも屈指の実力を誇るスコットランドのSTEPHEN BROWNの新作。
幻想的でエモーショナルな美しいメロディをダブステップにマッチさせた「TANGENT」、極上のデトロイトテクノに仕上げた「Reftective Practice」がともに素晴らしく、彼の才能を改めて認識するとともに、今後のさらなる活躍を期待したくなります。








8.5点 VICTOR SANTANA & BAND – VECTOR EP (Los Hermanos Remix) [CHAVAL] [12inch×2 EP]

軽快なトライバルビートにピアノや管楽器を大胆に取り入れた、ラテンミュージック色の強いファンキーなハウストラックで否応なくハイテンションに持っていかれる圧巻のオリジナル。
ICANあたりの作風に近いでしょうか。
Los Hermanosは、エモーショナルなシンセやミニマル色を強くしてよりテクノ的なアプローチを試みることで楽曲としての質を高めることに成功している、さすがと思わせるリミックスを2バージョン披露しており、充実した内容のEPです。








8点 ARJUNA SCHIKS – STORYTELLER [BURLESQUE] [12inch EP]


アムステルダムの新鋭ARJUNA SCHIKSによる、ドラマチックな展開のあるメロディアスなプログレッシヴ・テックハウス。
KaitoJoris Voornを足して2で割ったようなイメージと言えばいいでしょうか。
今後も注目したいアーティストです。









8点 DIEGO GAMEZ – GAME’Z EP [UNDERGROUND QUALITIY] [12inch EP]


USディープハウスを代表するJUS-ED主宰の[UNDERGROUN QUALITY]からバルセロナの新鋭DIEGO GAMEZによる作品。
シカゴハウスやデトロイトテクノの影響を強く感じさせる、透明感のある質の高いディープハウス作品。
今後が楽しみなアーティストです。









8点 MICHEL CLEIS – HER LADY LUCK (Jimpster Remix) [CRECIMIENTO] [12inch EP]


[CADENZA]レーベル発の「La Mazlca」でおなじみ、スイスのMICHEL CLEISによる新レーベル[CRECIMIENTO]の第一弾。
オリジナルはボーカルが冴えわたるお得意のラテン・トライバル。
オリジナルのボーカルを活かしつつクールテイストなモダンテックハウスに仕上げたJimpsterのリミックスも収録しており(インストバージョンもあり)、オリジナルよりこのリミックスバージョンの方が好きです。








7.5点 ANDY VAZ – 7INCH OF STRAIGHT VACATION Pt.2 (Memory FoundationPatrice Scott Remix) [YORE] [7inch EP]


デトロイトテクノやシカゴハウスの影響が色濃いドイツのディープ・テックハウスアーティストANDY VAZの曲のリミックスシリーズ第2弾。
オリジナルのサックスの音色を活かし、クオリティの高いジャジー・テックハウスに仕上げているMemory Faundationのリミックスの完成度が高いです。








7.5点 JAYSUN MERCED – THE VILLE EP [UNDERGROUND QUALITY] [12inch EP]


USディープハウスを代表するJUS-ED主宰の[UNDERGROUN QUALITY]から新鋭JAYSUN MERCEDによる作品。
レーベルカラーに沿った、派手さのない作りこまれた質の高いディープハウスです。








7.5点 MATTI TURUNEN - FALL EP [MUHK] [12inch EP]

デトロイト直系とも言えるエモーショナルなエレクトロ・ファンク作品をリリースしているフィンランドのユニットMORPHOLOGYの片割れであるMATTI TURUNENによる、自身のレーベルからのセカンドシングル。

同レーベルの前作同様、初期デトロイトテクノのスタイルを継承した、味わい深いピュア・ディープテクノです。
 





7.5点 LUKE HESS – ANALOG PASSION [ECHOCORD] [12inch EP]


[BASIC CHANNEL][DEEPCHORD]のダブテクノの系譜のアーティストとしては完全に頭一つ抜きんでている印象が強い、デトロイトのLUKE HESSによる新作。
重厚感のあるリズムと浮遊感のあるシンセが躍動感を生み出す、力強くグルーヴィーなダブテクノトラックです。