2013年8月26日月曜日
続・「良質な作品」と「面白い作品」は別物
「良質な作品」と「面白い作品」は別物
↑ の続きです。
映画やドラマなどの映像作品において「俳優の演技が下手だ」という意見は、多くの場合作品に対する否定的な意見として使われます。
しかし僕は「俳優の演技が下手」であることが、作品にとって必ずしもマイナスになるとは限らないと考えます。
仮に「凄く演技が上手いプロの俳優」と「演技をするのが初めての素人」が全く同じシーンを演じた場合、前者の方が「良質な作品」になる可能性が極めて高いですが、後者の方が「面白い作品」になる可能性も十分有り得ると思うのです。
この例でイメージしやすいと思うのは、松本人志監督の『さや侍』です。
この作品は素人の野見さんが主演で、一番の見所は「野見さんのアドリブ」と「野見さんの演技の下手さ」だと思います。
一応感動的なストーリーっぽくなっていますが、僕にとっては野見さんが演じている時点で感動なんてできませんし、満足度も決して高いわけではないのですが、この作品より「面白い」映画はなかなかないと思っています。
もし『さや侍』の主演が野見さんではなくプロの俳優だったら、もっと「良質な作品」になった可能性は高いですが、同時に「面白い作品」ではなくなる可能性が高いです。
この映画を「良質な作品」でもないし「面白い作品でもない」と感じた人も多いと思いますが、それは「野見さんを面白い」と感じることができないからで、それは笑いの好みの問題とともに「あらかじめ野見さんがどんな人か知らない」という原因による可能性も高いはずです。
つまり、『さや侍』を「面白い」と感じるために必要な大きな要素は「野見さんがどんな人か知っている」ということなのです。
「特定の出演者についての知識があるかどうか」ということが「面白い作品」と感じるかどうかのカギを握っている時点で、『さや侍』は「良質な作品」とは到底言えません。
ただし、野見さんのことを知っている人にとって『さや侍』は、主演に野見さんを使うことで、「良質な作品」ではなくなるリスクと引き換えに「面白い作品」になる可能性が高まった映画なのです。
このように「良質な作品」と「面白い作品」というのは反比例の関係になることも多く、完成度の低い作品(良質ではない作品)を一概に「面白くない」という言葉で片付けてしまうのはある意味乱暴であり、誤解を招く可能性が高いとともに、「作品の本質を語ることができていない」ということにもなりかねないので、改めて自分もそのことを肝に銘じるようにしたいと思います。
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